
【インタビュー】鷲尾あさみ Vol.01
幼少期から26歳までを宮城で過ごし、2013年から松山に移り住み、現在は実の母が経営する飲食店「道後椿倶楽部」にて料理・接客の腕を磨く鷲尾氏。激変する生活環境の中でも常に輝きを放ち続ける、一風変わった女性像の「横顔」に触れる。
遊んでるでしょって言われることが多いんですが、意外と仕事してます。(笑)
今日はインタビューにご協力いただきありがとうございます。
まず、現在のお仕事について教えて下さい。
はい。私の母親が経営する「株式会社つばき」という会社が運営する「道後椿倶楽部」という日本料理店で働いています。
お土産屋さんの「歩音 -あるね-」と古民家風のカフェ「レグレットカフェ」という店舗もあるのですが、私がタッチしているのは道後椿倶楽部だけになります。
道後椿倶楽部の営業は夜だけですよね?
そうです。夕方6:00〜11:00までの営業です。ですからお昼すぎから仕込みに入ります。
よく「昼間遊んでるでしょ」って言われることが多いんですが、意外と仕事してます。(笑)
入社されたのはいつ頃ですか?
愛媛に来て丸2年で、こっちに来てほぼ同時期に働き始めましたので、入社は2年前ですね。会社は先日7周年を迎えました。
道後椿倶楽部での仕事内容は?
基本的に接客も料理も全部やります。それは他の従業員の方も同じですね。前は料理長がいたんですけど1年前くらいに寿退社されて・・・。それで「料理もみんなでやろう」ということになったので、もうみんなが全部やってます。
それってお店としては大きな変革ですよね。
順応するのに苦労されたんじゃないですか?
そうですね。当時は料理はほぼその方に任せてたので、料理長がお店を離れることになってからは「おばんざいにしようか」とか、なにか形を変えてやろうかといろいろ試行錯誤しました。
でも、意外とやってみたらできたっていう感じで、形を変えずに継続していくことになりましたね。「このままの形でみんなでやろう」って。もちろん苦労した部分もあるんですけど、「なんとかなるかなー」っていうくらいでしたので。
ですから今は各々の役割っていうのが決まっていないので、みんなが何でもできるという状態。すごく仕事がやりやすいです。
仙台からの移住。
鷲尾さん自身は料理の経験はあったんですか?
いや、家庭料理くらいです。あと、学生のときに飲食店でアルバイトしてたくらい。特に修行ってのをやったわけではないんですよ。料理はすごく好きなので楽しいですけどね。
母もとある和食屋さんで10年くらい店長をしていましたが、料理はしてなかったみたいです。
そうなんですか!?
こないだ行ったときすごく美味しかったんで、意外です。
ありがとうございます!
少しプライベートな質問になりますが・・・、
お母様とは離れて暮らしていた期間が長かったんですよね?
そうなんです。
小さい頃に両親が離婚して、私は父方の方に引き取られて仙台で暮らすことになりました。父親はもう亡くなっているんですけど、姉は今でも仙台にいます。
母も仙台の出身なんですけど、いろいろと紆余曲折して結局松山に移り住んだっていう状況です。
なんか道後がすごい気に入ったみたいで。
道後は観光地として有名なので、観光で来てる方が多いですよね。だから逆に地元の人があまり来ない傾向にあるんです。でも地元の人にとっても道後って魅力がたくさん詰まってるので、地元の人こそ道後にもっと来てほしい・・・、そういう想いでこのお店を始めたみたいです。
お母様にもいろいろとご決断のタイミングがあったんでしょうね。
お店を始めると聞いたときはどう思いましたか?
母親が飲食店を経営するというのは私の中では意外でした。「そんなことするんだー」って。いつの間にか始めてた感じです。
当時私は仙台でエステの仕事をしていたんですけど、「将来エステ店をできるように会社組織にしてるから、やりたいならウチ(株式会社つばき)でやったら?」って言われました。
鷲尾さんが松山に移り住むようになったきっかけは?
もうね、来る気なんてサラサラなかったんです。何回か松山に遊びには来てはいたんですけど。当時私は仙台で仕事をしていたんですけどその仕事を辞めようとしてて・・・。なんとなく母にもそれは伝えてました。
次の仕事っていうのは具体的に決めてなくて、しばらく時間あけてゆっくり過ごそうかなって思ってたんです。で、ある程度期間が経ったので、これまでとは違う業種で働いてみたいと思ってたんです。でも自分には技術も何もないし、どうしようかなって悩んでました。
松山に来る気なんてサラサラなかったんです。
その時、なんとなく松山にいる母に電話したんです。ただ話がしたくて。
「次の仕事どうしようかなって思ってるんだよね」って言ったら、「ちょっとこっちにリフレッシュついでに遊びに来てみたら?」って言われたんです。
それで松山に”遊びに”来たんですけど、そのときは滞在するのも長くて2週間くらいかなって思ってたので、ウチのワンちゃんと、最低限の化粧品や着替えだけ持ってこっちに来たんです。
すると母から「どうせ来るんだったら、私もバタバタしてるし、椿倶楽部でバイトして?」って言われまして。「お小遣いにはなるでしょ?」「うん、いいよー」って。
それで松山に来た次の日から道後椿倶楽部で働き始めたんです。
事前に何も教えてもらえず、「ちょっとこれ持ってって」とか「あれやって」「これやって」ってぶっつけ本番でこき使われて。(笑)
お店に出てる時も「ウチの娘なんです」ってお客様に紹介されたりして、お客様にも「こっちに引っ越してきたんだねー」とか言われながら。なんとなく否定も肯定もせずにやってました。
2週間くらい経って、「そろそろ仙台に帰ろうかな」って母に話したら「え?ダメだよ。」って!(笑)
そのまま流れで松山に移り住んじゃいました。
私としてはこっちに住む気なんて全然なかったので、引っ越してからも半年くらいグズグズ言ってました。(笑)「帰りたいー」って。
母の作戦にハマってよかった
すごい話ですねそれ・・・。
今でも仙台に帰りたいって思いますか?
今は思わないです!こっちが楽しいし、生活の基盤もできてきたし。
お母様は計算づくで娘をこっちに住まわせた・・とか?
だと思います。(笑)ちょっとはめられた感があります。
松山に移り住んだことに後悔はしていない?
んー、自分の中でも「なんでこっちに引っ越してきたのかなー」って考えることがあるんですけど、母親に「こっちに引っ越してきたら?」って言われた時に、仙台に帰った自分と松山にいる自分の将来を想像したんです。
そしたら、松山にいる自分の将来はバァーって想像が広がったんですけど、仙台の場合はあまり浮かんでこなくて。。
だからはじめこそ松山には友達もいないし、嫌だって思ってましたけど、それでもなんとなくこっちにいたほうがいいのかなーって考えてました。
すごい感覚的ですけど。(笑)
その「感覚」が間違いではなかったということですよね?
そうですね。いろんな人と知り合うことができたし。
松山の人はみんなほんわかしてて落ち着いてて、外の人でも優しく迎え入れてくれる姿勢があってすごくいいです。買い物に行ったときに思ったんですけど、ショップ店員の人がみんな優しい!(笑)すっごい気さくに話しかけてくれます。
楽しく仕事もできてるし、母の作戦にハマってよかったのかなって(笑)
仙台から松山に「流れ」で移り住むというのもすごい話ですよね。
ですよね。
基本的に私はラッキーだなって思います。けっこうラッキーが多くて、そこに転がり込んでます。(笑)なんとなくこっちかな?っていう方向に向かってるんですけど、結果的に上手くいくみたいな感じで・・・、割りと運がいいかもしれない。(笑)
負けず嫌いなところもありますけど・・・。基本怠け者なんです。負けず嫌いなくせに「これをやり通す」って自信を持って言えることなんて何もなくて。ただ楽しく運良く生きてます。
今までは本当に流れに任せて生きてきました。
今後も運と流れに任せて生きていく感じですか?
んーどうだろ・・・。でも方法論とかなんらかのプロセスみたいなものがちゃんとないと人に自信を持って言えないですよね。「なんとなくうまくいってるんだよねー」って・・・、ねえ。(笑)
短い時間でも自分の人生をある程度語れるようになっておきたいっていうのはあります。やっぱり会話することも仕事なんで。
ありがとうございます。
では、後編では「道後椿倶楽部」と「お母様」についていろいろと聞かせて下さい。
わかりました!
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